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2018年2月28日の東京新聞(朝刊)の記事です。

雛 20180228東京 安田邸

このときの空襲は1945年4月13日ではないかと思います。私の家は今の文京区千石(当時は小石川区林町)で、この日の空襲で焼け出されました。私と妹は古平の伯父の家に預けられていました。父母と赤ん坊の弟が古平へ来たのは6月に入ってからだと思います。午後の定期船で着いた両親を妹と迎えに行った光景ははっきりと覚えていて、母の言った言葉が忘れられず詩にしてみました。「焼け跡に見覚えのあるお雛様の首が落ちていたので、ここが家のあった場所だと判った」と父が言っていました。父が生きていたときには内裏様だけまだ今の家にありました。内裏様だけ疎開したのです。その後どうなったか。探してもありません(家を建て替える時に処分したのか)。

お雛様

避難先の林町小学校から戻ってきた朝、焼け出された人達は奇妙に明るくて冗談までいっていた、と。父の話です。
また、父は、焼夷弾で焼け始めたお隣の二階の窓が開いていたので、閉めて来た、と話していました。
非常時にとっぴょうしもない行動をするものなのでしょうか。
隣組で消火のバケツリレーの訓練をしたけれど、実際にだれもそんなことはせず、逃げるのが精一杯だ、というのは当然です。

最近は小さな猫雛をひとつずつ買い足すだけ。鼠もいますよ。

猫雛DSCN0641

名無しの野良猫ちゃん。厳寒を何度もくぐってたくましく太っている。慎吾と何の話題?

tennteki DSCN0541
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昨日は、遠くのお二方と久しぶりにお話できた。

その1 岩崎昌子さん。

何ヶ月も音沙汰がなかったので心配していた。
カナダのトロント在住。猫友だち。愛猫ドラミちゃんが取り持つ縁で仲良しになった。2009年にカナダのご自宅を訪問。
ドラミちゃんに逢いに(?).。ドラミちゃんは毛の長い黒猫。おかかとキュウリが大好きなヘンな猫。第一夜から、私のベッドで寝てくれました。

ドラミ2009

スカンクやリス、タヌキも出没する庭で。

庭でのドラミ

当時の岩崎邸。札幌の中島公園の中に家がある、といった感じ。
今はマンションに引越。

カナダ岩崎邸のコピー

さて昨日の電話は悲しいお知らせ。療養中のドラミちゃんが、薬石効なく、昌子さんの胸で息を引き取った、という。
享年19歳。ご冥福をお祈りします。

岩崎さんは知る人ぞ知るイヌイットアートのコレクター。
イヌイットの町を訪れて、イヌイットの壁かけをアートとして認め、コレクションし、紹介しました。
「イヌイットの壁かけ」は暮らしの手帖社から出版され、大きな反響を呼びました。

日本でも、「岩崎コレクション展」が何度も開催され絶賛を博しました。

名著「イヌイット壁掛け」は絶版ですがAmazonで購入できます。定価3000円ですが2倍位の値段になってます。

イヌイットの壁掛けDSCN0331のコピー

暮らしの手帖社とも縁の深い昌子さん。カナダ便りを毎号載せていた時期もありました。

カナダでもNHKを契約して1部放映されています。「とと姉ちゃん」を岩崎さんは、もちろん毎日見ているそうです。
「暮らしの手」の商品テストに何度も参加したこともあるとか。何キロ歩いたらどのくらい体脂肪が減るか、などというテストだったそうです。

その2 田谷京子さん

もうかなり前(16年くらい?)、札幌のテレビ塔近くの画廊で(北海道画廊?)、猫をテーマにした美術展がありました。
友人が写真を展示すると言うので、見に行きました。

その折、妙に心惹かる作品に出会いました。
サインはありますが、タイトルも名前がありません。判らなかったものの、購入しました。
それと同じサインの画を札幌円山あった猫グッズの店で見つけ、オーナーの方にお名前と連絡先を伺い
手紙を書きました。そのあと田谷さんからお電話をいただき、2時間も猫の話で盛り上がってしまいました。

田谷京子猫

先日、工藤由里子さんのお店「猫の引出し」の「小さな猫展」の案内を戴き、田谷さんの出展を知り、工藤さんに田谷さんのことを話しました。それで昨夜、田谷さんからお電話戴いたわけ。やっぱり、猫の話やらなにやら2時間もおしゃべりしてしまいました。

この絵のこともよく記憶されていました(あったり前ですよね)。
長いスペインでの滞在のあとの記念すべき第一作だそうで、当然ですが、よく覚えているそうです。

猫の引出し「小さな猫展」猫の引出展

この日丁度、猫の事務所通信99号ができました。順次発送いたします。

猫の事務所通信99DSCN0328

私は東京小石川区(今の文京区)で生まれた.

父は、幼い私をいろいろなところへ連れて行ってくれた.父は銀座が好きだったようだ.
この写真は日本橋か、数寄屋橋だったか.

洋服屋の父はおしゃれだったので、街頭写真によく寫された.

この頃はまだ、戦争はまだそれほどではなかったのだろう.

日本橋明子

幼心にも、夜中の空襲の記憶が残っている.
昭和19年、伯父のいる北海道の漁村(古平)へ妹と預けられた.

其の6ケ月後に私の住んだ家も4月13日の空襲で焼けてしまった.幸い私たち家族は命だけは無事だった.

空襲記録

焼ける前の小石川の家の前で(昭和16年ごろ).親戚の叔父さんと奥さん.
私たちは、「ビルマの叔父さん」と呼んでいた.ビルマで戦死した.

「ビルマのおじさんと

最初の写真は数寄屋橋だった可能性が強いが、

6年ほど前日本橋で撮ってもらった.
この頃はまだ、今ほど世の中がひどくなかった.

日本橋2003

70年続いた平和な生活がなんだか危うくなっている.
つつましい暮らしでも平和程よいものはないのに.
2014.03.23 天本英世さん
2003年の3月23日、異色の俳優(怪優とも)と言われた天本英世さんが、急性肺炎で亡くなられた.

天本英世さんは、1983年に小樽でのロルカの詩の朗唱に来られた.当時苫小牧にいられた詩人の
佐土原台介さんの紹介であった.私はその頃、天本英世さんの著書「スペイン巡礼」と「スペイン回想」を
読んで感銘を受けていたので、前後もわきまえずお受けすることにした.


これが私が今やっているようなイベントに関わることになった最初である.このときはまだ四十代.
イベントの企画などどうして良いものか判らなかった.
天本さんは小林多喜二を生んだ小樽で、ぜひ虐殺されたロルカの詩を読んでみたいと思われたそうであった.
その熱意が伝わったのは、偶然にもその前に2冊の著書を読んでいたからだった、と思う.

ロルカ朗唱小樽DSCN1358


さっそく有志が集まり準備した.実行委員会メンバーとして協力してくれる方が現れた.
会場は当時色内町にあった魚藍館.北方舞踏派ダンサーの小島一郎さんが快く会場を提供してくれた.

予想以上の集客ができ(なんと200人!)、赤字覚悟だったのが、お金が余ってしまって、どうしようかと困った程だった.

天本さんは、小樽がすっかり気に入られて公演後も数日滞在された.
我々ファンは、大喜びでお相手した.天本さんはお酒は全然飲めないが、健啖家で特に魚がお好きだった.

俳優としては怖い印象しかなかったが、たいへんに気さくで律儀な方であった.
今のようにメールもケータイもない時代、公演のやり取りはすべてはがきであるが、
いつも律儀な楷書で書かれたはがきでお返事をくださった(宝物として大切にしています).

天本英世IN OTARU 1


ファンの皆で赤岩へいったりした.街を歩いていると長身で服装も黒いマントというのでかなり目立つ.
「あ! 死神博士」という人もいたが、天本さんはそれはあまり嬉しくなさそうだった.

あるとき、学生さんにそう言われて「君はそれしか知らないのか」と怒ったことがあった.
せめて学生さんには「ロルカの朗唱者」と言って欲しかったのだと思う.
いろいろな映画に出ているが、演技力はもちろんたしかであった.若い頃の写真はフランスの俳優
ジャン・ルイ・バローにそっくり!

天本英世イン赤岩海岸 1


写真は赤岩海岸にて 1983年 10月.とても寒かったが画家の山田芳生さん(左側)が海へ
飛び込んで泳いだことを覚えている。 


その2年後、私は天本さんの率いるスペイン旅行に参加.忘れられない21日間の長旅であった.
そのときご一緒した方々の数人とは、今もお付き合いしている.

天本さんのご命日は3月23日(あとりゑ・クレールの15周年記念日は3月21日).

九州出身の天本さんの記念館が作られていることを最近知った.また遺骨の一部は天本氏が、常日頃口にしていたように
スペインのグァダビキビル河に撒かれたと聞いている.

天本英世記念館をつくる会
2013.08.15 終戦記念日
8月15日は、私たち家族にとっても別な意味で運命の日といえます.

父は東京で紳士服仕立て業をしていたが、4月の空襲で家が全焼し、古平の漁師の網元の伯父を
頼って疎開.数ヶ月世話になったが、いつまでも家族5人がいるわけにもゆかず、雄冬にいる
母の従兄の家を頼って引っ越した.

伯父の漁船に乗り込んで夜中に小樽港を出港(今考えると密航?).
それが奇しくも8月15日前夜.
途中で漁船の無線が「終戦らしい」をキャッチした.雄冬行きの船がでる近くの村(旅館に1泊)で
下ろされ、確実に敗戦を知った.

そのまま雄冬で暮らすことになる.都会の便利な生活に慣れた私たちには、
村の生活がただただ驚き!そして新鮮だった.電気もガスも水道もない.
もちろんラジオもない生活.

収入の道もない両親はたいそう苦労したはずだが、子供の私たちは、何もない生活がちっとも
苦にならなかった.自然が豊かで海産物も野菜もたっぷりあり、海に囲まれた生活が楽しかった.
虚弱だった心身も鍛えられた.

5年間そこに住んで小樽へ戻ったが、「何もない生活」を今はむしろ懐かしく思うことがある.

最近、上関原発反対運動を続けている祝島へ移った友人からの便りに「ここには何もないが何でもある」
とあった.その意味が判る気がする.

昭和22年の雄冬小学校.先生の名前は加藤先生・校長の奥口先生・宮川先生.

雄冬小学校1


もちろん、この中に私と妹もいる. 皆どうしているだろうか・・・・.

後ろは「ご真影」を入れた建物か?


8月13日の夕方の神々しいような光. こんな形になったのは初めて見た.

夕陽十字架のようDSCN8800