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昨日は、遠くのお二方と久しぶりにお話できた。

その1 岩崎昌子さん。

何ヶ月も音沙汰がなかったので心配していた。
カナダのトロント在住。猫友だち。愛猫ドラミちゃんが取り持つ縁で仲良しになった。2009年にカナダのご自宅を訪問。
ドラミちゃんに逢いに(?).。ドラミちゃんは毛の長い黒猫。おかかとキュウリが大好きなヘンな猫。第一夜から、私のベッドで寝てくれました。

ドラミ2009

スカンクやリス、タヌキも出没する庭で。

庭でのドラミ

当時の岩崎邸。札幌の中島公園の中に家がある、といった感じ。
今はマンションに引越。

カナダ岩崎邸のコピー

さて昨日の電話は悲しいお知らせ。療養中のドラミちゃんが、薬石効なく、昌子さんの胸で息を引き取った、という。
享年19歳。ご冥福をお祈りします。

岩崎さんは知る人ぞ知るイヌイットアートのコレクター。
イヌイットの町を訪れて、イヌイットの壁かけをアートとして認め、コレクションし、紹介しました。
「イヌイットの壁かけ」は暮らしの手帖社から出版され、大きな反響を呼びました。

日本でも、「岩崎コレクション展」が何度も開催され絶賛を博しました。

名著「イヌイット壁掛け」は絶版ですがAmazonで購入できます。定価3000円ですが2倍位の値段になってます。

イヌイットの壁掛けDSCN0331のコピー

暮らしの手帖社とも縁の深い昌子さん。カナダ便りを毎号載せていた時期もありました。

カナダでもNHKを契約して1部放映されています。「とと姉ちゃん」を岩崎さんは、もちろん毎日見ているそうです。
「暮らしの手」の商品テストに何度も参加したこともあるとか。何キロ歩いたらどのくらい体脂肪が減るか、などというテストだったそうです。

その2 田谷京子さん

もうかなり前(16年くらい?)、札幌のテレビ塔近くの画廊で(北海道画廊?)、猫をテーマにした美術展がありました。
友人が写真を展示すると言うので、見に行きました。

その折、妙に心惹かる作品に出会いました。
サインはありますが、タイトルも名前がありません。判らなかったものの、購入しました。
それと同じサインの画を札幌円山あった猫グッズの店で見つけ、オーナーの方にお名前と連絡先を伺い
手紙を書きました。そのあと田谷さんからお電話をいただき、2時間も猫の話で盛り上がってしまいました。

田谷京子猫

先日、工藤由里子さんのお店「猫の引出し」の「小さな猫展」の案内を戴き、田谷さんの出展を知り、工藤さんに田谷さんのことを話しました。それで昨夜、田谷さんからお電話戴いたわけ。やっぱり、猫の話やらなにやら2時間もおしゃべりしてしまいました。

この絵のこともよく記憶されていました(あったり前ですよね)。
長いスペインでの滞在のあとの記念すべき第一作だそうで、当然ですが、よく覚えているそうです。

猫の引出し「小さな猫展」猫の引出展

この日丁度、猫の事務所通信99号ができました。順次発送いたします。

猫の事務所通信99DSCN0328
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私は東京小石川区(今の文京区)で生まれた.

父は、幼い私をいろいろなところへ連れて行ってくれた.父は銀座が好きだったようだ.
この写真は日本橋か、数寄屋橋だったか.

洋服屋の父はおしゃれだったので、街頭写真によく寫された.

この頃はまだ、戦争はまだそれほどではなかったのだろう.

日本橋明子

幼心にも、夜中の空襲の記憶が残っている.
昭和19年、伯父のいる北海道の漁村(古平)へ妹と預けられた.

其の6ケ月後に私の住んだ家も4月13日の空襲で焼けてしまった.幸い私たち家族は命だけは無事だった.

空襲記録

焼ける前の小石川の家の前で(昭和16年ごろ).親戚の叔父さんと奥さん.
私たちは、「ビルマの叔父さん」と呼んでいた.ビルマで戦死した.

「ビルマのおじさんと

最初の写真は数寄屋橋だった可能性が強いが、

6年ほど前日本橋で撮ってもらった.
この頃はまだ、今ほど世の中がひどくなかった.

日本橋2003

70年続いた平和な生活がなんだか危うくなっている.
つつましい暮らしでも平和程よいものはないのに.
先日、偶然20年以上も音信が途絶えていた友人に道でばったり会いました.
近くに住んでいるのに、お互い行動範囲が違っていたのです(30代の頃は近くの銭湯で背中を流し合いましたが、もうとっくにその銭湯もありません).

彼女は、若い頃好きで買い集めてた中原淳一の画集などを、もし要るならば下さるというのです.
中原淳一といえば、.十代からずっと愛読していて、関連の「ひまわり出版社」の「ひまわり」とか「それいゆ」を購読していました.
文学のこと映画・音楽のこと(特にシャンソン)を始めとする多くの分野の芸術、ファッション、生活の知恵(料理・洗濯・手芸・アイロンのかけ方まで!)にまでわたっていて、20代で母を失くした私の母親がわりであり、人生の師にもなってくれました.

フランスに憧れ、シャンソンファンになったのもそのせいです.
翌日さっそくたくさんの関連の本が届きました!

中原淳一本DSCN3572

その中に思わず「きゃあ!」と叫んでしまった1冊の本!
松田 瓊子(けいこ)著「紫苑の園」

これは少なくても高校生以上の年代になってから読む本なのですが、戦後漁村の親戚の家を借りて暮らしていた小学生の時、可愛がってくれた高橋京子先生が東京へいった折のおみやげなのでした.
本が手に入りづらい田舎のことで、活字に飢えていた私は、何度繰り返して読んだことでしょう.

この中に描かれている楽しい共同生活の数々のエピソード、クリスチャンのストイックで上品なムード,
エキゾチズム・・・・・、私が初めて垣間見る世界で、.これがまさにその本.

D紫苑の園SCN3574

ただし、初版の本は昭和10年代の、私が生まれる前に発行されています.その本を愛読していたのです.

こちらは、1985年に「淳一文庫・12」として図書刊行会から再販された本.

私が読んでいたのは、もちろん初版、旧仮名遣いのもっと質素で小ぶりな本でした.

再販本の序文は、今をときめく村岡花子さん!
村岡さんは、瓊子さんを世に出すのにかなりの力になられたそうですが、瓊子さんは、25歳の若さで亡くなっていられます.
初版本は死後に出版されたのです、

新仮名遣いで文字も大きくなったこの再販本をもう一度読める喜びに浸っています.

村岡花子序文

著者の松田瓊子さんの父上は、「銭形平次捕物控」でもお馴染みの時代小説作家・野村胡堂氏.
この本に「娘・瓊子を語る」として文を寄せています.


松田瓊子
2014.03.23 天本英世さん
2003年の3月23日、異色の俳優(怪優とも)と言われた天本英世さんが、急性肺炎で亡くなられた.

天本英世さんは、1983年に小樽でのロルカの詩の朗唱に来られた.当時苫小牧にいられた詩人の
佐土原台介さんの紹介であった.私はその頃、天本英世さんの著書「スペイン巡礼」と「スペイン回想」を
読んで感銘を受けていたので、前後もわきまえずお受けすることにした.


これが私が今やっているようなイベントに関わることになった最初である.このときはまだ四十代.
イベントの企画などどうして良いものか判らなかった.
天本さんは小林多喜二を生んだ小樽で、ぜひ虐殺されたロルカの詩を読んでみたいと思われたそうであった.
その熱意が伝わったのは、偶然にもその前に2冊の著書を読んでいたからだった、と思う.

ロルカ朗唱小樽DSCN1358


さっそく有志が集まり準備した.実行委員会メンバーとして協力してくれる方が現れた.
会場は当時色内町にあった魚藍館.北方舞踏派ダンサーの小島一郎さんが快く会場を提供してくれた.

予想以上の集客ができ(なんと200人!)、赤字覚悟だったのが、お金が余ってしまって、どうしようかと困った程だった.

天本さんは、小樽がすっかり気に入られて公演後も数日滞在された.
我々ファンは、大喜びでお相手した.天本さんはお酒は全然飲めないが、健啖家で特に魚がお好きだった.

俳優としては怖い印象しかなかったが、たいへんに気さくで律儀な方であった.
今のようにメールもケータイもない時代、公演のやり取りはすべてはがきであるが、
いつも律儀な楷書で書かれたはがきでお返事をくださった(宝物として大切にしています).

天本英世IN OTARU 1


ファンの皆で赤岩へいったりした.街を歩いていると長身で服装も黒いマントというのでかなり目立つ.
「あ! 死神博士」という人もいたが、天本さんはそれはあまり嬉しくなさそうだった.

あるとき、学生さんにそう言われて「君はそれしか知らないのか」と怒ったことがあった.
せめて学生さんには「ロルカの朗唱者」と言って欲しかったのだと思う.
いろいろな映画に出ているが、演技力はもちろんたしかであった.若い頃の写真はフランスの俳優
ジャン・ルイ・バローにそっくり!

天本英世イン赤岩海岸 1


写真は赤岩海岸にて 1983年 10月.とても寒かったが画家の山田芳生さん(左側)が海へ
飛び込んで泳いだことを覚えている。 


その2年後、私は天本さんの率いるスペイン旅行に参加.忘れられない21日間の長旅であった.
そのときご一緒した方々の数人とは、今もお付き合いしている.

天本さんのご命日は3月23日(あとりゑ・クレールの15周年記念日は3月21日).

九州出身の天本さんの記念館が作られていることを最近知った.また遺骨の一部は天本氏が、常日頃口にしていたように
スペインのグァダビキビル河に撒かれたと聞いている.

天本英世記念館をつくる会
2013.08.15 終戦記念日
8月15日は、私たち家族にとっても別な意味で運命の日といえます.

父は東京で紳士服仕立て業をしていたが、4月の空襲で家が全焼し、古平の漁師の網元の伯父を
頼って疎開.数ヶ月世話になったが、いつまでも家族5人がいるわけにもゆかず、雄冬にいる
母の従兄の家を頼って引っ越した.

伯父の漁船に乗り込んで夜中に小樽港を出港(今考えると密航?).
それが奇しくも8月15日前夜.
途中で漁船の無線が「終戦らしい」をキャッチした.雄冬行きの船がでる近くの村(旅館に1泊)で
下ろされ、確実に敗戦を知った.

そのまま雄冬で暮らすことになる.都会の便利な生活に慣れた私たちには、
村の生活がただただ驚き!そして新鮮だった.電気もガスも水道もない.
もちろんラジオもない生活.

収入の道もない両親はたいそう苦労したはずだが、子供の私たちは、何もない生活がちっとも
苦にならなかった.自然が豊かで海産物も野菜もたっぷりあり、海に囲まれた生活が楽しかった.
虚弱だった心身も鍛えられた.

5年間そこに住んで小樽へ戻ったが、「何もない生活」を今はむしろ懐かしく思うことがある.

最近、上関原発反対運動を続けている祝島へ移った友人からの便りに「ここには何もないが何でもある」
とあった.その意味が判る気がする.

昭和22年の雄冬小学校.先生の名前は加藤先生・校長の奥口先生・宮川先生.

雄冬小学校1


もちろん、この中に私と妹もいる. 皆どうしているだろうか・・・・.

後ろは「ご真影」を入れた建物か?


8月13日の夕方の神々しいような光. こんな形になったのは初めて見た.

夕陽十字架のようDSCN8800
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